[40/50]近代の日本教育制度。学制(1872)→教育令(1879)→改正教育令(1880)→諸学校令(1886)

開国〜明治維新後の、急ピッチで教育制度を整えていく様子をまとめる。

学制(1872年、明治5年)

廃藩置県など中央集権化を進めていた明治政府は文部省を1871年(明治4年)に設置、その翌年1872年(明治5年)、フランスの教育制度をもとに「学制」を発表。学制の意義を説明した「被仰出書(おおせいだされしょ)」の中では、教育が立身出世の手段であることが示される。またこの時期に師範学校が設置され、教員として赴任したアメリカ人のスコット(1843-1922)による一斉教授法が広まった。制度はフランス、教授法はアメリカからと、良さそうな物は部分的にでもいろんなところから取り入れたのである。急いで国づくりを進めていった明治政府らしさが表れている。

新しい学校制度である学制は、急に整えたということもあり、地方の実情を無視している面があった。そのため、民衆の反発を招き、次の教育令へとつながっていくことになる。

教育令(1879年、明治12年)、改正教育令(1880年、明治13年)

自由教育令とも呼ばれる、ゆるい教育令である。アメリカ人のマレーなどによって立案。地方の反発を受けて、就学期間も1年間に4ヶ月ほどでOKというゆるさに設定したが、就学率の低下につながり、翌年「改正教育令」へ修正されることになる。

諸学校令(1886年、明治19年)

この前年1885年に内閣制度が創設。初代の文部大臣に森有礼(もりありのり)が就任した。教育問題に強い関心を示していた森有礼は、1886年に小学校、中学校令、帝国大学令、師範学校令という学校種ごとに対応した法令(まとめて諸学校令)を制定して教育改革に取り組んだ。
小学校令はその後も何度か改定され、授業料の無償化、義務教育期間が6年になるなど、教育制度が整備されていった。

以上の4つの変化をまとめると、
①学制(1872)→②教育令(1879)→③改正教育令(1880)→④諸学校令(1886)
②でゆるーくなった以降はだんだん国家の統制が強くなってきているという流れになっている。

では演習。

演習問題

次の文を正誤判定せよ。
(1) 1872年に、「学事奨励に関する被仰出書」が太政官から布告され、次いで文部省から、中央集権的なフランスの教育制度を参考にし、一般行政区から独立した学区制を採用した近代的教育法規である「学制」が頒布された。
(2) 1879年に、既に施行されていたイギリスの義務教育制度を模範として、田中不二麿によって 起草された「日本教育令」を基に、中央集権的・画一的な教育制度を打破して、地方分権的な教育制度を採用した、「教育令」が制定公布された。

解説

今回はここまで!

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